第1部 静かな来訪者
夜十時を回ったころだった。小さなバーの扉が静かに開き、ひとりの男が入ってきた。昼間の喧騒も、深夜の酔客のざわめきもない、静かな時間帯にふさわしい歩き方だった。
男は六十代前半ほど。背筋を少し丸め、けれど身だしなみはきちんとしている。着ているシャツには皺ひとつなく、靴は磨かれて光っていた。髪も短く整えられ、無駄なものを削ぎ落としたような雰囲気がある。だがその目の奥には、何か深い湖の底のような影が沈んでいた。
「いらっしゃいませ」
声をかけると、男は小さく会釈し、カウンターの端に腰を下ろした。
「……静かで、いい店ですね」
柔らかな口調だったが、どこか遠くから声が聞こえるような、そんな印象を受けた。
「何になさいますか?」
「安いウイスキーを、ロックでお願いします」
注文の仕方も丁寧で、言葉の選び方に慎重さがあった。
ウイスキーを注ぎ、グラスを置くと、男は両手で包み込むように持ち、少し目を閉じた。まるで、その液体に何か懐かしい記憶でも浸っているかのように。
数分が経ち、彼はぽつりと言った。
「ここへ来るのは、初めてなんです」
「そうですか。遅い時間帯は、だいたい静かですよ」
「……静かな方が、落ち着きます。騒がしいところは、どうも苦手で」
その言葉に、私はなるほどと思った。彼の動作や話し方から、極端に物事を乱したくない性質が伝わってくる。清潔感の理由もそこにあるのだろう。
だが反面、その整いすぎた身なりの奥に、“乱れたものを抱えている人間がよく見せる緊張”を少し感じた。
男は少し間を置いてから続けた。
「……人は、後悔をし続けて生きていくものですね」
その一言は、この場には少し重い。
「そういう時もありますね」
「ええ。でも、そういう時ほど……誰かの温かい言葉が欲しくなるんです。少しだけでいい」
彼はウイスキーをひと口含み、静かに息を吐いた。
この言葉をどこまで受け止めればいいのか、私は迷った。だが不思議と、“深くは聞くな”という直感が働いた。
「お客さん、お名前は?」
自然に口をついて出た言葉だった。
「……サンジ、と呼ばれていました」
“いました”という過去形に、私はほんの少し引っかかりを覚えた。
店に漂うジャズの音、ウイスキーの香り、グラスの氷が溶ける音。その全ての中で、サンジという男はじっと一点を見つめている。その表情は静かだが、心の奥に何かが積もっているようだった。
「また、来てもよろしいですか」
「もちろんです。お待ちしています」
そう言うと、サンジは初めて微笑んだ。
だがその笑顔はどこか儚く、まるで“長く続かない関係”を自分で分かっているようにも見えた。
その夜、サンジはグラス一杯だけを飲んで、静かに帰っていった。
彼の後ろ姿を見送りながら、私は思った。
――あの人は、きっと何かを背負っている。
そして、その何かはきっと軽くはない。
この時はまだ、彼が“ある罪”を抱えたまま生きていることを、私は知らなかった。
第2部 サンジの優しさ
サンジが二度目に店へ現れたのは、前回から三日後のことだった。
その日は閉店までまだ一時間ほどあったが、店は相変わらず静かで、カウンターには私しかいなかった。
扉が開くと、前回と同じように彼は丁寧に頭を下げ、同じ席へ座った。
「……また来てしまいました」
「歓迎しますよ。常連さんは多い方が助かります」
そう言うと、サンジは少し照れたように笑った。
その笑顔は、初回のときより柔らかかった。
彼の注文も変わらず、安いウイスキーのロック。
だが、彼の指先が僅かに震えているのを見て、何か良いことがあった訳ではないと悟った。
「今日は……少し、心が落ち着かなくて」
「それは、お疲れさまです」
「疲れているのか……罪悪感なのか……自分でもよくわからないんです」
また“重い言葉”だった。
だが、私はあえて深くは聞かない。
サンジが語る準備をしていないことは、彼の声の震えから分かった。
この夜、印象的だったのは、店を閉める準備をしていたときだった。
私はカウンターの奥でグラスを片付けていたが、ふと気づくとサンジが棚の前で、落ちたメニュー表を拾って整えていた。
「すみません、お客さんが手伝う必要は……」
「いや、気になってしまって。こういうの、きちんとしていないと落ち着かないんです。性分なんでしょうね」
彼は本当に几帳面で、誰かの役に立つことを自然にしてしまう。
それは優しさでもあり――同時に“自分で自分を律するような生き方”のようにも見えた。
その翌週。
店を閉めようとしていた時、外から女性の悲鳴が聞こえた。酔っ払いに腕を掴まれた女性が困っているらしい。
私が外へ出ようとすると、それより早く飛び出していったのがサンジだった。
「やめなさい!」
普段の穏やかな声からは想像できない、鋭い叫びだった。
サンジは酔っ払いの腕を掴んで強く制し、女性を後ろへ下がらせる。
その落ち着いた対応と、迷いのない力の入れ方を見て、私は驚いた。
短時間で状況を判断し、相手を傷つけず、無理なく制圧している。
普通の人間にできる動きではない。
その後、サンジは女性に深々と頭を下げた。
「大丈夫でしたか。怖い思いをさせてしまいましたね」
女性は震えながらも、何度もありがとうと言った。
サンジは最後まで優しい目で見守り、女性がタクシーで帰るのを静かに見送った。
私は声をかけた。
「サンジさん、今日は助かりました」
彼は少しだけ笑った。
「人のために動けるときだけ……私は、自分を許せる気がするんです」
許せる――という一言が胸に残った。
彼は誰かを救うことでしか、自分を保てないのかもしれない。
その陰に、深い後悔や罪悪感が確かに存在していた。
帰り際、サンジはぽつりと呟いた。
「店主さんのような人を見ると、救われますね」
「私はただの酒屋ですよ」
「いえ……こういう場所があるから、まだ人間を続けられる人もいるんです」
その言葉の意味を、私はまだ理解していなかった。
だが、この夜のサンジの行動すべてが――
“彼は本来、誰かを傷つける人間ではない”
ということを私に強く刻みつけた。
それが、後に知る“彼が人を殺した理由”を、より痛ましく感じさせる伏線になるとは、このとき思ってもいなかった。
第3部 過去の気配
サンジが店に来る頻度は、少しずつ増えていった。
週に一度だったのが、いつの間にか二度になり、気がつけば「この時間に来るはずだ」という存在になっていた。
彼は変わらず穏やかで、少し控えめな笑顔を浮かべ、同じ安いウイスキーを頼む。
だが、ある夜。
サンジは珍しく、酒を舐めるようにゆっくり飲んでいた。
普段のようにカウンターを整えることもせず、両手でグラスを包みこんだまま、じっと琥珀色の液体を見つめていた。
「……人生って、難しいものですね」
ぽつりと呟かれた言葉は、店内の静けさを裂くように重かった。
「何かありましたか?」
私が尋ねると、サンジは首を振った。
「いいえ。ただ……時々、自分がどこへ向かっているのか分からなくなるだけです」
その言葉は、深い沼の底から絞り出されたようだった。
視線を落としたまま、サンジは続けた。
「人は……守りたいもののために、壊れてしまうことがあります。正しいことをしたつもりでも、結果だけ見れば、間違っていたり」
「守るために、間違えてしまう?」
「そうです。そういう愚かさが、人間にはありますね」
影が濃くなる話題の前でも、サンジは声の調子を変えなかった。
ただ、その瞳の奥では、消えない何かが燃えているように見えた。
その一瞬、サンジの右手がグラスから離れた。
その指に、私の視線が止まった。
――古い傷跡。
指の第二関節付近に、切り傷とも火傷とも取れる痕がいくつも走っていた。
細かなものから斜めのものまで、まるで何度も痛みを伴う作業を続けていたような跡。
私は思わず聞いてしまった。
「その傷……昔のお仕事で?」
サンジは微笑んだ。
だがその笑みは、今まで見たどの笑顔よりも弱く、無理に浮かべたようだった。
「昔、少しだけ荒れた生活をしていたので……。でも、もう全部、終わったことです」
言葉は静かだったが、
“終わったこと”
という確信に満ちた言い方が、逆に私の胸に引っ掛かりを残した。
さらにその夜。
サンジは少し酔いが強かったのか、珍しく自ら話し始めた。
「ねえ、店主さん……もし人生をやり直せるなら、どうします?」
「そうですね。私はこの店をもう一度、同じように始めます」
「理由は?」
「大変なこともありますが……後悔はないので」
サンジは、ゆっくりと瞬きをした。
「後悔が……ない?」
「はい」
「……羨ましいです。本当に」
サンジは自分の胸に手を当てて、小さく震えていた。
「私は……後悔ばかりですよ。やり直せるなら……全部を違う選択にしたい」
その声は、かすれていた。
酒のせいではない。
胸の奥から滲み出る“悔恨”そのものだった。
サンジはそのあと、人が変わったように黙り込み、グラスを傾けた。
会話はそれ以上続かず、最後まで表情は暗い影のままだった。
帰り際、私が「また来てください」と声をかけると、サンジは少し驚いた顔をした。
「……はい。もし私がまだ……ここへ来ていいのなら」
“まだ来ていいのなら”。
その言葉に、胸が妙にざわついた。
まるで、彼が自分自身に対して「来る資格がない」と思っているかのようだった。
その夜。
サンジの席だけが、いつまで経っても冷たく感じた。
まるで、そこに座っていた彼が、ただの客ではないことを告げるように。
私はふと気づいた。
――あの男の過去には、触れてはいけない何かがある。
その直感は、のちに確信へと変わることになる。
第4部 違和感と確信
サンジが来店しなくなったのは、あの「後悔ばかりですよ」と言った夜の数日後からだった。
いつもなら閉店前の静かな時間に扉が開き、彼の柔らかな気配が店内に流れ込んでくるはずだった。しかしその気配はパタリと途絶えた。
一週間ぶりに、扉が音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、やつれた顔のサンジだった。
「……ご無沙汰しています」
「体調、崩されてましたか?」
「いえ。少し……考えることがあって」
彼の声は弱々しく、目の下には深い影が落ちていた。
座る仕草も以前よりゆっくりで、体の芯が疲れ果てているようだった。
ウイスキーを出すと、彼はグラスに触れる前に長い溜息をついた。
「店主さん……私がここに来る資格、まだあるのでしょうか」
「資格なんて、必要ありませんよ」
「……本当に、そう思いますか?」
その問いには、答えるより先に胸がざわついた。
サンジは明らかに、何かの終わりを感じながら生きている。
それは人生の疲れではなく、“決断をした人間”の表情だった。
しばらく沈黙の後、サンジは懐から小さな折り紙の鶴を取り出した。
丁寧に折られた、小さな白い鶴。
彼はそれをカウンターにそっと置いた。
「これは……私が守れなかった人に、いつも渡していたものです」
声の震え方が、ただの思い出ではないことを告げていた。
「守れなかった?」
私が問い返す前に、サンジの目が揺れた。
まるで心の奥底を覗かれたくないと拒むように。
「……すみません、変な話ですよね」
「いえ」
「この鶴を見ると、どうしても思い出してしまうんです。私が……本当はしてはいけなかったことを」
その瞬間、私は確信した。
彼は“誰かに強く縛られた罪”を抱えて生きている。
「サンジさん……もし、話したいことがあるなら」
そう言うと、サンジは首を横に振った。
「いいんです。これ以上、誰にも迷惑をかけたくないんです」
彼はグラスに一口も触れず、ただ静かに手を組んだまま話し続けた。
「店主さん。私はね……もうすぐ、ここに来られなくなるかもしれません。それが怖いとかではないんです。ただ……寂しい」
「何かあったんですか?」
「……ええ。ありました。ただ、それは私が背負うべきもので、あなたが背負う必要はありません」
これ以上は聞いてはいけない。
そう直感しながらも、私は胸の奥に不安が固まっていくのを感じていた。
「最後に、お願いがあります」
「……はい」
「もし、私が急に来なくなったら……どうか、私のことを忘れてください」
その言葉には、どこか死を覚悟したような響きがあった。
私は思わず言った。
「忘れられるわけないでしょう」
「……それでも、そうしてほしいんです」
サンジは深く、深く頭を下げた。
彼が見せることのなかった礼の仕方だった。
その後、彼は短く「ありがとうございました」とだけ言い、足早に店を後にした。
背中は痩せたように見え、今にも折れてしまいそうだった。
扉が閉まったあとも、店内には彼の残した沈黙が重く漂っていた。
私はカウンターに置かれた折り紙の鶴をそっと手に取った。
その軽さに似合わないほど――胸が痛かった。
確信があった。
サンジは、ただの客ではなかった。
彼の影の正体は、私が思っているよりもずっと重く、深いものなのだと。
その夜の静けさを、私は一生忘れないだろう。
第5部 静かな消失と真実
サンジが店に姿を見せなくなったのは、あの折り紙の鶴を置いていった夜からだった。
彼が「もうすぐ、ここに来られなくなる」と言った言葉が胸に残り、私は閉店後の静かな店内で、その言葉の意味を何度も考えた。
翌日も、その次の日も、サンジの姿はなかった。
あれほど決まった時間に現れていた男が、何の前触れもなく消える。
胸の中に、不安が丸く固まっていくようだった。
三日目の夜になっても、扉は静かなまま。
私は気づけば、彼がいつも座っていた席を何度も見ていた。
そこに置かれた折り紙の鶴は、変わらず白く、小さく、静かだった。
五日目の夜。
私はテレビのニュースをつけながら、仕込みをしていた。
いつも通り、何気なく聞き流していたはずだった。
「――五年前の“事故死”とされていた男性の再調査で、新たな証拠が見つかった件です」
私は思わず手を止めた。
アナウンサーの声は落ち着いているのに、胸がざわついた。
「事件当時、同居していた兄弟間のトラブルがあった可能性が高いとして、警察は本人の事情聴取を進めていました」
映し出された映像に、私は息を呑んだ。
画面の端に、モザイク越しに映った“後ろ姿”。
動き方、姿勢、肩の落とし方――
どう見ても、サンジだった。
「本日、警察は“自首があった”と発表し、事件性を認め、男性を任意同行しました」
手から力が抜け、包丁がまな板に落ちた。
画面には、サンジの名前が、静かに、残酷なほど淡々と流れた。
事件の内容も、すぐに説明された。
「被害者の男性は、長年の家庭内暴力を行っていた兄。
兄の暴力から妹を守るため口論となり、被害者を突き飛ばし——頭部を強く打ったことで死亡したとみられます」
私は呆然とした。
サンジの「守れなかった」「後悔ばかり」という言葉の意味が、一気に繋がった。
彼は、ただの犯罪者ではなかった。
誰かを守るために、壊れたのだ。
そしてその代償を、自分一人で背負い続けていた。
「なお、妹の遺した日記がきっかけで事件の再調査が行われ――」
そこで私の目に涙が溜まった。
サンジが何度も言っていた“守れなかった人”。
それは妹だったのだ。
気づけば私は、カウンターの席を見つめていた。
彼がいつも静かに座っていたあの場所。
誰にも迷惑をかけず、誰よりも丁寧に、この店を扱ってくれていた場所。
折り紙の鶴を手に取ると、軽く震えた。
サンジが残した唯一の“罪の証”であり、“愛の証”でもあった。
「……サンジさん」
声に出すと、店の空気が揺れて聞こえた。
彼の静けさ、優しさ、影、後悔――
そのすべてが胸に押し寄せてきた。
店の照明を少し落とす。
カウンターの上に置いた折り紙の鶴が、ほのかな灯りに照らされ、柔らかい影を落とした。
私はグラスをひとつ用意し、ウイスキーを少しだけ注いで彼の席に置いた。
「また来てくださいよ。……忘れろなんて、無理ですよ」
静かな店内に、グラスの音が小さく響いた。
サンジのいない夜は、やけに長かった。
けれど、彼が背負った罪と優しさは、確かに私の店に刻まれていた。
その夜、私はそっと目を閉じた。
サンジという男の影は、もうここにはない。
しかし――
彼が残した温度だけは、消えることなく漂い続けていた。

