密会予約

今回の小説はそれぞれのキャストによっての目線を分けて3話にしてみました。先ずは店主目線からお楽しみ下さい。

第2話 ― 店主目線

昼下がりの光が差し込む店内は、夜とはまるで別の顔をしていた。
普段なら静かに掃除や仕込みをしている時間に、今日は特別な予約が入っている。密会予約――久々の利用だった。

現れたのは四十代半ばの男。姿勢は堂々としているが、目元に疲れが滲んでいる。中小企業の社長だと聞いた。隣には三十代前半の女性、取引先の事務員らしい。彼女はきちんとした服装で、真面目さがそのまま形になったような印象を受けた。二人が夫婦でないことは、言葉を交わす前から分かる。

初めての予約のとき、店内の空気は柔らかかった。男はよく笑い、女は照れながらもその笑顔に引き込まれていた。どこにでもいる恋人同士のように見えたが、心の奥では「この関係は長くは続かない」と私は直感していた。

二度目の利用では様子が違った。女は最初こそ楽しげに話していたが、男の口数が少なく、笑顔に影が差していることに気づいたのだろう。次第に彼女の表情が曇っていき、グラスの中の氷を指で回す仕草に寂しさが滲んでいた。男は何かを言い出そうとしては口を閉ざし、逃げ場を探すように酒をあおる。私は黙ってグラスを磨きながら、二人の距離がわずかに開いていくのを見ていた。

そして今日。昼下がりに現れたのは女ひとりだけだった。予約もなく、扉を開けるその姿には、決意のようなものと同時に脆さが宿っていた。彼女はカウンターの端に座り、視線を落としたまま「一杯だけ」と囁く。声はかすかに震えていた。

私は彼女にグラスを差し出しながら、胸の奥で思う。この場所は、出会いも別れも静かに受け入れる器でしかない。私はただ見守ることしかできないのだ、と。

第2話 ― 男性目線

時計を気にしながら、昼下がりの扉を押す。
仕事の合間を縫ってここへ来るのは、楽しみであり同時に重荷でもあった。家庭に背を向け、嘘を重ね、誰よりも近くにいるはずの妻に対して言い訳ばかりしている自分。

初めて彼女とこの店に来たとき、心が久しぶりに解き放たれるのを感じた。彼女は不器用に笑い、真剣に話を聞いてくれる。会社でも家庭でも味わえない、安らぎの時間だった。あのときは、ただ彼女と一緒にいるだけで幸福だった。

だが二度目の利用の時点で、すでに胸の中で葛藤が始まっていた。家に帰るのが遅い日が続き、妻の視線は冷え切っている。子どもたちの前で笑顔を作る自分に嫌気がさす。
「もうやめるべきだ」――理性はそう囁く。
だが、彼女が目を輝かせて語る姿を見ると、言葉が喉に貼りついて出てこない。

その日、彼女の笑顔が次第に曇り、悲しげな瞳でこちらを見つめていることに気づいた。彼女は悟ったのだろう。自分がこの関係を続けられないと考えていることを。胸が締め付けられた。だが、どうしても言葉にできなかった。彼女を傷つけたくなかったし、自分の弱さを見せたくもなかった。

そして今日。予定も告げずに現れることはないと思っていた彼女が、この場所にひとりで来たと聞き、胸がざわついている。
私は来なかった。家庭の事情を理由に、自分に言い訳をした。だが本当は、怖かったのだ。彼女の本心と向き合うことが。

心の奥底で分かっている。
彼女はもう、ひとりで立ち向かおうとしているのだと。
そして私は、逃げることを選んでしまったのだと。

第2話 ― 女性目線

扉を開けた瞬間、昼下がりの静けさが胸に広がった。
彼と一緒ではなく、ひとりでこの店に来るのは初めてだった。

最初に来た日のことを思い出す。彼の隣で過ごした時間は、まるで夢のようだった。普段は堅苦しい会社の空気の中でしか会えなかった彼と、自由に笑い合えることが嬉しかった。私は経験が少ない分、そのひとときがすべての世界に思えた。

二度目の来店で、彼の態度に小さな違和感を覚えた。笑顔が減り、視線がどこか遠くを見ているようで。最初は気のせいだと思いたかった。けれど、会話を重ねるうちに分かってしまった――彼は距離を取ろうとしているのだと。

胸が痛んだ。私は真面目にしか愛せない。相手を信じ、全身でぶつかってしまう。だからこそ、彼の沈黙が刃のように突き刺さった。無理をして笑おうとしても、涙が喉の奥でつっかえてしまう。

そして今日。彼が来ないことは、最初から分かっていた。
それでも私はここに来た。
最後に、彼と過ごした場所の空気を吸い込みたかったから。彼に会えなくても、ここに座ればあの時間を思い出せる気がした。

カウンターに並ぶボトルを見つめながら、私は心の中で彼に語りかける。
「ありがとう。あなたを好きになれた自分を、私は後悔しない」

それでも涙は止まらず、グラスの中へ静かに落ちていった。

barに纏わる小説【夜更けのカウンター第三部】


小説「夜更けのカウンター」

第三部 「過去と今をつなぐ夜」

 秋も深まったある晩、母娘は再び店を訪れた。
 母は少し緊張した面持ちで、娘はどこか決意を秘めた瞳をしていた。

「こんばんは、マスター」
「いらっしゃいませ。今日は……何か、大事な夜のようですね」

 二人は並んで腰を下ろす。
 母はウイスキーを、娘はホットワインを注文した。
 氷が落ちる音が、これから始まる話の前触れのように響いた。

 娘が切り出した。
「お母さん。実はね……少し調べてみたの」
 母の手が震えた。
「まさか……」
「ええ。お父さんの名前、昔の日記に書いてあったでしょう? 調べたら、まだご健在だった。もう引退してるけど、近くで暮らしているみたい」

 母はしばらく言葉を失った。
 長年、心の奥にしまってきた人物が、急に現実の姿を持ちはじめたのだ。

「会いたいの?」
 娘の問いに、母はしばらく考え、そして小さく首を振った。
「いいえ……私が会う必要はないの。もう別の人生を歩んでいる人だから。ただ……あなたがどうしても会いたいなら、止めはしないわ」

 娘は母の手を握った。
「私も迷った。でもね、今日ここで決めた。私は会わない。ただ、お母さんがどんな思いで私を育ててくれたのか、それだけ分かればいい。お父さんは遠い存在でいい」

 母の目から涙が一筋こぼれた。
「……ありがとう。本当に強い子に育ったのね」

 その瞬間、母と娘の間に長年の影が溶けていった。
 父を探す物語は、血の再会ではなく、母娘の心の再生として幕を閉じたのだ。

 マスターは静かに二人のやり取りを見守り、やがて一言だけ添えた。
「過去は変えられませんが、未来は選べますから」

 母は微笑み、グラスを掲げた。
「じゃあ未来に乾杯ね」
 娘もグラスを重ねる。
「うん、未来に」

 グラスが小さく触れ合い、澄んだ音が店に響く。
 その音は、過去を解き放ち、新しい時間を始める合図のようだった。

 夜更け、二人は肩を並べて店を後にした。
 月明かりに照らされた背中は、どこか軽やかで、希望に満ちていた。

 マスターは残されたグラスを磨きながら、小さく呟く。
「またひとつ、物語が終わった。けれど、きっと次の夜には新しい物語が始まる……」

 静かなバーには、変わらぬジャズが流れていた。

――第三部 了

barに纏わる小説【夜更けのカウンター第二部】


小説「夜更けのカウンター」

第二部 「母と娘の秘密」

 翌週の夜九時を回ったころ、再びあの女性が店の扉を押し開けた。
 だが、今度は一人ではなかった。彼女の隣には三十代半ばほどの女性が立っていた。大きな瞳と落ち着いた雰囲気。その表情には少し緊張がにじんでいた。

「こんばんは、マスター。今日は娘を連れてきたの」
「いらっしゃいませ。ようこそ」

 二人は並んでカウンターに腰を下ろした。
 母はいつものハイボールを。娘はグラスワインを頼む。
 照明に照らされた二人の横顔は、年齢の差こそあれど、血のつながりを映し出すように似ていた。

「お母さん、ほんとに変わったお店見つけたのね。静かで……落ち着く」
「でしょう? ここなら余計な耳もないし」

 母の声には、何かを切り出そうとする気配が漂っていた。
 娘は首を傾げる。

 やがて母は、グラスの氷を見つめながら言った。
「ねえ……あなたにずっと言えなかったことがあるの」
 娘の手が止まる。
「お父さんのこと?」

 母は小さく頷いた。
「若い頃、私は銀座で働いていてね。そこで出会った人が……あなたのお父さん。でも、その人には家庭があったの」
 娘は驚きと、どこか納得したような表情を浮かべた。

「だから、私は一人であなたを育てることにした。愛情が足りなかったかもしれないけれど、それだけは伝えておきたくて」

 沈黙が落ちる。
 店内のBGMが、静かに流れるピアノの音だけを響かせていた。

「どうして、今になって話そうと思ったの?」
「歳をとるとね……過去が急に重たくなるのよ。背負ったままじゃ、いつかあなたを傷つけると思ったの」

 娘はしばらくワインを見つめ、やがて口を開いた。
「お母さん、ありがとう。正直、少しショック。でもね……私はずっと愛されて育ったって分かってる。それで充分よ」

 母の目に涙がにじむ。
 彼女は慌てて笑顔をつくった。
「やだわ、私ったらお酒のせいね」

 娘は母の手にそっと触れた。
「ねえ、お父さんって、今どうしてるの?」
「それが分からないのよ。調べようと思えばできるのかもしれない。でも……怖いの」

 母の言葉に、娘は静かに頷いた。
 そして小さく、しかし確かに言った。
「私なら、知りたい。お母さんがどう思っても、私は知ってみたい」

 その言葉が、母の胸に重く響いた。
 長い間しまい込んできた秘密は、今まさに扉を開けようとしていた。

 その夜、二人が店を後にするとき、マスターはカウンター越しに軽く会釈をした。
 母は少し照れたように言う。
「ねえマスター、この店……不思議ね。来るたびに人生の続きを話さなきゃならない気がするわ」
「ここは物語の置き場所ですから」

 扉が閉まる。
 残された静寂の中、マスターは拭き終えたグラスを光にかざしながら呟いた。
「さて、次はどんな結末になるのか……」

――第二部 了


barに纏わる小説【夜更けのカウンター第一部】

当店を題材にしたフィクション小説を作りました。三部作で構成していますのでお楽しみに!
第一部 「銀座の残り香」

 夜八時を少し過ぎたころ、バーの扉が軋むような音を立てて開いた。
 その夜の最初の客は、背筋をすっと伸ばした白髪の女性だった。七十代とは思えぬ身なりの良さ。鮮やかなスカーフを首に巻き、唇には深紅の口紅。彼女は迷いなくカウンターに腰を下ろした。

「こんばんは」
 マスターが穏やかに声をかけると、彼女はにこりと笑った。
「いいお店ね。街のざわめきが聞こえない。隠れ家って感じだわ」

 彼女はメニューを見ずに言う。
「ハイボールを。濃いめでお願い」

 グラスに氷が落ち、ウイスキーが注がれる音だけが響く。
 その静けさの中で、女性はふっと肩の力を抜いた。

「私ね、昔は銀座で働いてたのよ。夜の蝶ってやつ」
「それは華やかな時代を過ごされたんですね」
「華やかさばかりじゃなかったわよ。お客に頭を下げ、泣き笑いしながら稼ぐ日々。けれど不思議ね……あの頃のこと、今も夢に見るの」

 少し低くなる。
「背広の似合う立派な人でね。大手企業の人。奥さんも子供もいたのに……馬鹿な話でしょう? それでも、彼が来ると銀座の夜がまるで宝石のように輝いて見えた」

 マスターは頷き、グラスを磨きながら耳を傾ける。
 客が言葉を紡ぐのを遮らないのが、この店の流儀だ。

「別れたあとに……妊娠が分かったの」
 彼女は声を落とした。
「伝える時間なんてなかった。もう彼は遠くへ行っていたから。私はひとりで娘を産んで、育てたわ」

 その言葉の重さを、静かなカウンターが包み込む。
 彼女は少し笑みを浮かべて続けた。
「幸せだったのよ。娘のおかげで。……でもね、最近になって、どうしても気になってしまうの。あの人は今どこで、どんな風に生きてるんだろうって」

 彼女は二杯目を頼み、少しずつ口に運んだ。
 明るい口調に戻りながらも、その笑顔の奥には長年しまい込んできた迷いが見え隠れする。

「ごめんなさいね、こんな昔話。お客を楽しませるのが仕事だったのに、私ったら」
「ここは楽しむ場所でも、吐き出す場所でもありますから」
 マスターは静かにそう答えた。

 彼女はしばらく黙ってグラスを見つめ、やがて小さな声で言った。
「もし……あの人に娘の存在を伝えたら、人生は変わっていたのかしらね」

 答えの出ない問いが、グラスの底で揺れていた。
 その夜、彼女は三杯目で止め、会計を済ませるとまたにこりと笑った。
「いい店だった。また来るわ」

 扉が閉まり、静けさが戻る。
 マスターは磨き終えたグラスを棚に戻しながら、小さく呟いた。
「また、物語の続きを聞かせてください」

 外は秋の夜風。
 カウンターには、まだ彼女の残り香と、語られなかった想いが漂っていた。

――第一部 了