barに纏わる小説【夜更けのカウンター第一部】

当店を題材にしたフィクション小説を作りました。三部作で構成していますのでお楽しみに!
第一部 「銀座の残り香」

 夜八時を少し過ぎたころ、バーの扉が軋むような音を立てて開いた。
 その夜の最初の客は、背筋をすっと伸ばした白髪の女性だった。七十代とは思えぬ身なりの良さ。鮮やかなスカーフを首に巻き、唇には深紅の口紅。彼女は迷いなくカウンターに腰を下ろした。

「こんばんは」
 マスターが穏やかに声をかけると、彼女はにこりと笑った。
「いいお店ね。街のざわめきが聞こえない。隠れ家って感じだわ」

 彼女はメニューを見ずに言う。
「ハイボールを。濃いめでお願い」

 グラスに氷が落ち、ウイスキーが注がれる音だけが響く。
 その静けさの中で、女性はふっと肩の力を抜いた。

「私ね、昔は銀座で働いてたのよ。夜の蝶ってやつ」
「それは華やかな時代を過ごされたんですね」
「華やかさばかりじゃなかったわよ。お客に頭を下げ、泣き笑いしながら稼ぐ日々。けれど不思議ね……あの頃のこと、今も夢に見るの」

 少し低くなる。
「背広の似合う立派な人でね。大手企業の人。奥さんも子供もいたのに……馬鹿な話でしょう? それでも、彼が来ると銀座の夜がまるで宝石のように輝いて見えた」

 マスターは頷き、グラスを磨きながら耳を傾ける。
 客が言葉を紡ぐのを遮らないのが、この店の流儀だ。

「別れたあとに……妊娠が分かったの」
 彼女は声を落とした。
「伝える時間なんてなかった。もう彼は遠くへ行っていたから。私はひとりで娘を産んで、育てたわ」

 その言葉の重さを、静かなカウンターが包み込む。
 彼女は少し笑みを浮かべて続けた。
「幸せだったのよ。娘のおかげで。……でもね、最近になって、どうしても気になってしまうの。あの人は今どこで、どんな風に生きてるんだろうって」

 彼女は二杯目を頼み、少しずつ口に運んだ。
 明るい口調に戻りながらも、その笑顔の奥には長年しまい込んできた迷いが見え隠れする。

「ごめんなさいね、こんな昔話。お客を楽しませるのが仕事だったのに、私ったら」
「ここは楽しむ場所でも、吐き出す場所でもありますから」
 マスターは静かにそう答えた。

 彼女はしばらく黙ってグラスを見つめ、やがて小さな声で言った。
「もし……あの人に娘の存在を伝えたら、人生は変わっていたのかしらね」

 答えの出ない問いが、グラスの底で揺れていた。
 その夜、彼女は三杯目で止め、会計を済ませるとまたにこりと笑った。
「いい店だった。また来るわ」

 扉が閉まり、静けさが戻る。
 マスターは磨き終えたグラスを棚に戻しながら、小さく呟いた。
「また、物語の続きを聞かせてください」

 外は秋の夜風。
 カウンターには、まだ彼女の残り香と、語られなかった想いが漂っていた。

――第一部 了

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