
第一部 「静かな入口」
店の扉は古く、開けるたびにかすかに軋む。
ここは小さなアンティーク調のバーだ。聞こえは良いが、実際はただ年季が入っているだけで、客が多いわけでもない。
だが、この静けさを好んでくれる客が、ゆっくりと酒を飲んでいく。それで良いと思ってきた。
最近よく来る青年がいる。ノスケ。
背が高く、細く、栄養が足りてなさそうな身体つき。
どこか影のある目をしているが、礼儀正しく、騒がない。
ビール一杯で長く座るあたり、懐具合は察するものがある。
ある夜、店の扉が再び鳴いた。
入ってきたのはレナという名の女性。
仕事帰りらしく落ち着いた服装で、空気の柔らかい人だった。
「ノスケ君、来てるかなと思って」
そう言って、彼の隣に座った。
二人は恋人というには距離があり、友人にしては目線が優しい。
名前をつけられない関係は、美しくも脆い。
その数日後の夜。
レナは小さな袋を持って来た。
ノスケの誕生日だという。
彼女が渡したのは細いシルバーのブレスレット。
派手ではないが、存在感のある良いものだった。
ノスケはそれを受け取って笑った。
だがその笑顔には、かすかに影があった。
嬉しさと、劣等感。
「ありがとう、本当に…」
そう言いながら、指先が震えていた。
彼は自分が何も返せないことを分かっていた。
彼女はそれでも笑っていた。
「いつか返してくれたらいいよ。今じゃなくて」
その言葉は優しさであり、同時に、ノスケの胸に残る棘にもなっただろう。
その夜、帰り道。
レナが店の前で少し立ち止まって、夜空を見上げていた。
ノスケは後ろから少し遅れて歩き、彼女の横に立った。
言葉はなかった。
けれど、肩と肩がわずかに触れた。
「良い関係だな」と思った。
だが、良い関係ほど、形のないものほど、崩れやすい。
人は、心に余裕がなくなった時、支えられていたものに気づけなくなる。
あのブレスレットが、二人を繋ぐ最後の糸になるとは、まだ誰も知らない。
第二部 「曖昧な距離」
レナは、ノスケをときどきこの店へ誘った。
待ち合わせの時間より少し早く来て、決まって同じ席に座る。
カウンター中央、ライトの下。
彼女はそこで、少し緊張したようにグラスを両手で包みながら待っていた。
ノスケは、いつも遅れぎみに店へ来た。
理由は聞かない。
きっと、彼自身が自分の時間に追いつけていないのだろう。
生活のペースも、夢も、食事も、すべてがぎりぎりで転がっているような青年だった。
二人で並んで飲んでいる時、レナはよく笑った。
ノスケの話の中にある、夢の破片のような言葉をひとつひとつ拾い上げていた。
「いつかでっかいステージに立ってさ」と言うノスケの目は、その瞬間だけ本物に輝いていた。
レナはその光を、まっすぐ見ていた。
けれど、ノスケはレナを「良い飲み仲間」と呼んだ。
それ以上の言葉を持たなかったのか、持つ余裕がなかったのか。
曖昧な関係は、二人のあいだで長く揺れ続けていた。
ある日、レナがこっそり話してくれた。
「別にね、付き合ってほしいわけじゃないんだけど…」
その前置きが、すでに胸を締め付ける。
「一緒にいる時間が、ちゃんと“何か”だったらいいなって思うの。」
ノスケは笑っていたが、その意味は、きっと届いていなかった。
そして、転機は突然来る。
ノスケのYouTubeに上げた歌が、ある日を境に急に再生され始めたのだ。
SNSで拡散され、コメントが増え、登録者も跳ね上がった。
本人も驚いていたが、同時にどこか浮き足立っていた。
「マスター、俺…いけるかもしれない。」
そう言ったときのノスケは、初めて自分自身に手を伸ばせている人の顔をしていた。
あの夜、レナは彼を見つめながら泣きそうに笑っていた。
自分の望みではなく、彼の夢の背中を押す人の顔だ。
しかし、成功はいつも優しいわけじゃない。
ノスケは忙しくなり、店に来る頻度は増えたが、レナと来ることはなくなった。
そして、話す内容は金と再生数と未来のことだけ。
彼の周りは、急に眩しすぎる世界へ広がり始めていた。
レナは、しばらくしてひとりで来た。
ハイボールを半分飲んで、静かに言った。
「私、あの子のことが好きなんだと思う。」
声は震えていなかった。
けれど、目は何かを諦める準備をしていた。
俺は何も言えなかった。
言葉をかければ、何かを歪めてしまいそうで。
グラスの中の氷が、静かに音を立てて溶けていく。
二人の距離もまた、溶けて、形を失い始めていた。
第三部 「すれ違いの夜」
ノスケが店に来る頻度はさらに増えた。
以前のような静かなビールではなく、派手なカクテルや、値段の高いウイスキーを迷いなく注文するようになった。
俺はそれを止めなかった。
止められる立場でもなかった。
彼はよく話した。
自分の動画の再生数、企業案件、ライブの依頼、ファンからのメッセージ。
その話は確かに眩しかったが、その中にレナの名前は一度も出なかった。
ある夜、レナが久しぶりに店へ来た。
ノスケとは連絡が取れていないと言う。
「忙しいんだろうね」と、無理に明るく笑ったが、その笑顔は細くて薄かった。
その直後のことだ。
偶然、ノスケが扉をくぐってきた。
時間が止まったように思えた。
二人の視線が、店の中の空気を引き締めた。
「……あ、レナ。」
ノスケは軽く手を上げたが、どこか気まずさを隠そうとしていた。
レナは微笑んだ。
その微笑みは、相手を傷つけないためのものだった。
二人は向かい合って座った。
話は弾まなかった。
話せる言葉が、もう互いに同じ場所にはなかった。
レナの視線が、ふとノスケの手首へ向いた。
そこにあるはずの、銀のブレスレットはなかった。
レナは気づかれないように、息をひとつだけ吸った。
ノスケは気づかなかった。
いや、気づかないふりをしたのかもしれない。
「元気そうでよかった。」
レナはそれだけを言って立ち上がった。
その背中は、決めてしまった人の背中だった。
扉の鈴が鳴ったあと、静けさが戻った。
ノスケは何も言わなかった。
ただグラスの中を見ていた。
「なくしたのか?」
俺はあえて聞かなかった。
それは違う。
失くしたのではなく、外したのだ。
ノスケは、その夜、いつになく酔った。
「俺、ちゃんと掴みかけてるんですよ…夢を…」
言葉は熱を帯びていたが、瞳はどこか遠くを見ていた。
成功に手が届くとき、人は大事なものをポケットに入れているつもりで落としてしまう。
そして落としたことに気づけるのは、ずっとあとだ。
この時はまだ、二人の物語が終わったのだと、俺でさえ思っていた。
第4部 「沈む影と灯らない言葉」
ノスケが店に顔を見せなくなっていた頃、噂は自然と耳に入った。
バズっていたYouTubeの収益が落ち始め、再生数もじわじわと下がっているらしい。
本人は何も言わないが、拭えない焦りは、あの細い肩にも影を落としていた。
そんなある晩、店の扉が重く開いた。
ノスケだった。
前に来ていた時のような勢いはない。だが、それを認めたくないプライドが先に立っている。
「マスター、ハイボール。安いやつでいい。」
声は乾いていた。
私は言われた通りに作り、カウンターへ置く。
ノスケはグラスを掴み、喉へ一気に流し込んだ。
酒というより、何かを押し流したかったのだろう。
その数分後、扉がもう一度開く。
レナだ。
いつも通り整った身なり、落ち着いた表情。
けれど一瞬だけ、ノスケと目が合うと、呼吸が浅くなったのがわかった。
「……来てたんだ。」
レナの声は平静を装っていた。
ノスケはグラスを指先で回しながら、目を合わせない。
「別に。来ちゃダメだった?」
その言い方は、どこか突き放すようだった。
本当は余裕がないとき、人は優しさより先にとげが出る。
レナはそれでも、表情を変えない。
大人だ。
自分を守る術を知っている強さを持っていた。
「そうじゃないよ。ただ…久しぶりだなって思って。」
「ふーん。」
沈黙。
氷が溶けていく音だけが聞こえる。
私は氷を足しながら、心の中でそっと息をついた。
二人は、互いに相手を気にしているくせに、真っ直ぐ言葉を投げられない。
レナはグラスを一口飲み、表情だけで強さを保ち続けていた。
弱さを見せたら崩れてしまうと、どこかで知っている人の飲み方だ。
「ノスケ、最近どう?」
「まぁ…普通。」
ほんとは普通じゃない。
でも、言えない。
若さゆえの意地か。
悔しさか。
それとも、レナに見せたくない格好の悪さか。
レナはその嘘を見抜いていたが、追わなかった。
優しさというより、尊厳に触れないという距離感。
「そっか。なら、よかった。」
その言葉は、少し苦かった。
ノスケはグラスを置いて立ち上がる。
「今日は帰るわ。マスター、また。」
そう言いつつ、出口へ向かう。
その背中は小さかった。
あれほど大きな夢を語っていたのに。
レナはただ見送った。
呼び止めない。
追いかけない。
それが、彼の心に触れすぎない優しさだと知っているから。
扉の鈴が鳴る。
ノスケが去り、静かな空気が落ち着いた。
レナはグラスを見つめ、小さく息を吐く。
「強くいられるって、疲れますね。」
その声は震えていなかった。
泣く手前でもなかった。
ただ、確かに痛かった。
私はカウンター越しに言う。
「強い人ほど、誰かの前で弱くなっていいんですよ。」
レナは、かすかに微笑んだ。
それは、崩れないギリギリのところで保たれた、か弱い強さだった。
第5部 「灯が戻る夜」
ノスケが再び店に来るようになったのは、秋口だった。
再生数はさらに落ち、広告収入はほとんど無くなり、期待していた契約も流れたらしい。
SNSの華やかな投稿も止まり、彼のまわりからは人が消えた。
派手な仲間は、金がなければあっという間に消える。
それが現実だ。
ある夜、店の扉が静かに開いた。
ノスケは痩せて、少し疲れた目をしていた。
「……マスター。いつもの、安いやつ。」
私はうなずき、グラスに氷を落とす。
ノスケはそれを受け取り、少しずつ飲んだ。
以前のような勢いで流し込むのではなく、味わうように、噛みしめるように。
「……俺さ、全部失ったわけじゃないのに、なんか空っぽなんだよ。」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、やっと自分に向けて言えた言葉だった。
扉がもう一度開いた。
レナだった。
ノスケは一瞬だけ身体を硬くする。
だが、逃げなかった。
レナはいつも通り落ち着いた表情で席につく。
「こんばんは。」
それだけ言って、視線はノスケに向けない。
強がっている。だけど崩れていない。
そのバランスが痛々しくて、美しかった。
やがて、ノスケが口を開いた。
「レナ。……前はごめん。」
レナは目線をあげる。
責めず、問いたださず、ただ聞く。
「俺、怖かったんだ。
自分がちっぽけすぎて、レナに何も返せないのが。
だから、距離置いた。かっこ悪いよな。」
レナは小さく息を吸い、優しい声で言った。
「かっこ悪くても、逃げなければいい。
それだけで十分だよ。」
ノスケはゆっくりと手首をまくる。
そこには――あのシルバーのブレスレット。
「手放せなかった。
レナのこと、忘れたことなかった。」
レナの唇が震える。
でも涙はこぼさない。
強さはそのまま、ただ心だけが柔らかく揺れていた。
「……じゃあ、また飲もうよ。
前みたいに。
でも前と同じじゃなくていい。」
ノスケはうつむいて笑い、そして顔を上げる。
「うん。
俺、ちゃんとレナと居たい。」
レナはそっと頷いた。
その瞬間、二人の距離はもう、曖昧ではなくなった。
私は二つのグラスに同じ酒を注ぐ。
音は静かで、深く、温かかった。
「おめでとう。
……いや、まだ早いか。
でも、そう言わせてもらうよ。」
ノスケとレナは、視線を合わせて、微笑んだ。
外は相変わらず夜だ。
でもこの店の中だけは、確かに灯がともっていた。
人の心は派手な瞬間ではなく、
静かに戻ってくる場所で、形になる。
この店がその“戻る場所”である限り、
私はそれでいい。
終わり



















